河堀神社から源ヶ橋

 

 

 

 

 

猫間川の主な水源地は桃が池をはじめとした阿倍野の水田地帯であったが、上町台地からもいくつかの支流が猫間川に流れ込んでいた。昔から湧き水の豊富な上町台地は、猫間川のもう一つの水源地でもあったのだ。

もともと大阪という街は、葦原の沼地に排水路を縦横に穿って干拓してできた土地で、井戸を掘っても良質の飲み水を得ることができず、たまに良質の水が出ると、「二つ井戸」などと地名になって残るほどで、飲み水には苦労した。街中の飲み水は、大川あたりの水を汲んで売り歩く「水舟」から一荷いくらで買って、台所の水壺に汲み置きしていた。そのあたりのようすは、上方落語の「壺算」の枕によく語られている。

 

上町台地の一帯は自然の湧き水の豊富なところで、言い伝えでは、生駒山に降った雨水は、300年の年月を経て上町台地に湧き出てくる、といわれている。なかでも「天王寺の七名水」は有名で、古くから茶の湯の席でも珍重されてきた。

 

 

伶人町興禅寺の東側、増井弁財天の境内にある増井の清水

安居神社の境内にあったという安居の清水

一心寺の前あたりにあったという逢坂の清水

有栖山新清水寺の北坂あたりにあったという有栖の清水

泰聖寺の境内にあったという金龍水

一心寺の西下にあったという玉手水

四天王寺金堂の下にある青龍池から湧き出ているという亀井の水

写真は、京都の清水寺にある音羽の滝に倣ってつくられたという、有栖山新清水寺の玉出の滝。(20046月撮影)

詳しくは「天王寺区HP」などを参照していただきたい。

http://www.city.osaka.lg.jp/tennoji/page/0000000122.html

 

 

 

現在の地図を見ても、上町台地の南には、天王寺公園内には慶沢園の池、茶臼山の河底池、四天王寺には亀の池や本坊の池があり、高津宮から南には、生国魂神社、金台寺、大覚寺などの松屋町筋の諸寺などに池が見える。

 

左の写真は、天神坂の曹洞宗興禅寺の門前にある、湧き水を利用したモニュメント。現在も滾滾と清水が湧き出している。

 

 

 

上町台地の西側は比較的急な斜面であるのに比べ、東側はなだらかな丘陵地になっている。明治四十五年の天王寺から鶴橋付近にかけての地図を見ると、上町台地の東側の丘陵地から四本の支流が猫間川に流れ込んでいるのが見て取れる。上町台地のふもとを流れていた猫間川の本流のほかに、上町台地の上にももう一つの"猫間川"が流れていたのだ。その後猫間川が暗渠になって完全に地上から姿を消し、人々の記憶から遠くなってゆくにつれ、しだいに情報は混乱し、あるときには上町台地の上を流れ、またあるときは下を流れ、ある人は北に流れていたといい、またある人は南に流れていた、というようにして、神出鬼没、変幻自在の「猫間川伝説」が誕生したのだった。

 

 

南から見てゆくと、

 

1、庚申池から河堀稲生神社の南を通って、JR環状線寺田町駅のホームの下を通り抜けて、源ヶ橋付近で猫間川に合流するルート。

2、四天王寺本坊の池から東大門を通って、寺田町公園から聖和小学校の西を通り、玉造筋の寺田町交差点で東に向きを変え、JR環状線の線路を潜り抜けて猫間川に合流するルート。

3、毘沙門池から五条公園を通って松ヶ鼻、堂ケ辻を経て、細工谷で東に向きを変え、聾学校の前で猫間川に合流するルート。

4、味原池からほぼまっすぐ南下して、現在の大阪日赤の敷地を南北に貫き、細工谷で毘沙門池からのルートと合流して、猫間川に注ぎ込むルート。

以上の4つのルートがあった。

 

 

まず、庚申池から河堀稲生神社を経て源ヶ橋へ通じるルートから見てゆこう。

 

『摂津名所図会』には「天王寺庚申堂、南大門の南にあり。青面金剛、梵天帝釈、薬師如来、如意輪観音を安置す。庚申の日毎詣人大いに群れをなせり。文武帝御宇、大宝元年正月七日庚申の日、当寺住侶正善院民部僧都毫範(ごうはん)感得ありし霊場なり。されば本朝最初の庚申とす。」とある。

 

 

庚申堂は現在の天王寺区堀越町に現存していて、今も庚申まいりの信者で賑わっている。写真は改修工事が終わったばかりの庚申堂。(2004923日撮影)

庚申堂の西には、かつて庚申池という池が存在していたことが、明治四十五年の地図で確認できる。大正七年の地図にも記載されているが、昭和二年の地図にはすでに消滅している。庚申堂のご住職に庚申池のことを尋ねたが、寺には池のことは伝わっていないので、いつ頃消滅したのかはわからないとのことであった。寺の境内や寺領にあった池ではなく、庚申堂のそばの池、という意味で俗に呼ばれていたものらしい。

 

 

庚申堂の南にある「清水井戸地蔵尊」。一名を「谷の清水」、「清水の井戸」という。『摂州大阪地図』に本清水として井戸の所在が示され、『摂津名所図会』には、「谷の清水、庚申堂の南一丁ばかりあり、清泉にして甘味なり」とある。

地蔵尊はいつ頃作られたか不明だが、明治三十二年、明治四十二年の清水改築記念碑がある。

 

 

地蔵尊の隣には、御影石で組んだ立派な井戸があり、清冽な湧き水が滾滾と流れ出ている。

この清水は、もともとはここから西南の方角にある崖から湧き出ていたものを土管で引いていたのだが、戦時中に湧き水が枯れてしまい、現在では地下水をポンプアップしている。

 

 

地蔵尊の南には、かつては湧き水が出ていたという崖があり、崖からせり出すようにぎりぎりのところまで民家の軒先が並んでいた。湧き水が涸れてしまったというのも、むべなるかなである。

庚申池から流れ出た水は、この崖に行く手を遮られて南下することができず、上町台地を東に流れ下っていった。

 

 

庚申池は庚申堂の白壁の西側、ちょうど今の「夕陽丘予備校」(赤い看板)のあたりにあった。清水井戸地蔵からは指呼の間である。このあたりは現在でも地勢が低くなっていることからみて、昔から付近の崖から湧き出る水が自然に集まり、池になっていたのだろう。

庚申池の西隣には、茶臼山古墳の環濠の痕跡である河底池が現在もある。上町台地の南側の湧き水をあつめてため池とし、灌漑用の水路を穿って水稲栽培をはじめたのは、古墳時代に朝鮮半島から、高度な灌漑土木技術と水稲栽培技術を携えて、この地に移り住んだ人たちであった。

 

 

庚申池の水は、庚申堂の南を東に流れて今の天王寺中学の南を通り抜け、そのまま道なりに東に進み、河堀稲生神社の一筋南の通りを東に流れていた。

「河堀稲生(こぼれいなり)神社」というその名が示すように、河を掘り、稲を栽培した人たちの氏神様であった。

 

 

『摂津名所図会』には、「崇峻天皇社」という名前で登場する。ご祭神は、宇賀魂大神、崇峻天皇、素盞嗚尊の三柱。境内の由緒書きには、

「当社は景行天皇の御代、已亥年の秋、夏目入穂の孫逆輪井が鍬津の西、浪花潟昼々丘に神地を賜り、稲生の神を奉斎し、代々祭祀するようになった。後に聖徳太子が四天王寺創建と共に、此地に社殿を建て、崇峻天皇を祭祀し、四天王寺七宮の一宮として、稲生大明神と併祀することになった。又、この地を古保礼(コボレ)と云う。延暦七年(788)三月、摂津太夫和気朝臣清麿が、河内摂津両国の界に川を掘り、堤を築き、荒陵の南より、河内川を導き、西の海に通ぜんとして、当社に祈願した。以後、河堀と書いて「コボレ」と称す。」とある。

 

つまり和気清麻呂は、河内平野に流れ込んでいた古大和川を直接大阪湾に排水して、流入する水量を調節して洪水を防ぎ新田を開こうとし、河堀稲生神社に難工事の成功を祈願したものの、当時の土木技術では上町台地を乗り越えることができず、工事は途中で放棄されたのだった。宝永元年 (1704)に大和川付け替え工事が完成するまで、大和川の水は河内平野に注ぎ込んでいたのだ。

 

「古保礼(コボレ)」という地名は、古くはいくつかの集落が集ってできた地域を指す「コホリ」に由来しているのではないだろうか。大化改新(645)以降に地方の行政区画は「クニ」−「コホリ」−「サト」、という秩序で整備され、 大宝律令(701年)制定頃には「国−郡−里」、それ以前は「国−評−里」あるいは「国−評−五十戸」と表記されていた。大宝律令によると、当時の「サト」は五十戸で構成するよう定められていたことから、「コホリ」は数百戸の規模だと想像される。現在の地名でいうと、桑津から北田辺、文の里、美章園、三明町、天王寺町のあたり一帯が、河堀稲生神社を氏神とした祭祀共同体だったのだろう。

 

 

 

境内の片隅に、「三ツ池水利組合」が国庫債券五千円を購入したのを記念して、大正十四年四月一日に建てられた、りっぱな石碑がある。

「三ツ池」とあるのは、現在の教育大学付属天王寺小学校付近にあった「三明池」のことで、おそらくは、国の事業として大規模な灌漑治水工事を行うのに当たり、受益者にも応分の負担を課すために、国庫債券を購入するよう、半ば強制的に地元に割り当てられたのであろう。その後、「三明池」の埋め立てに伴い、氏神であった河堀稲生神社に移されたと考えられる。

 

 

現在では、JR環状線や関西本線、阪和線、近鉄南大阪線などの線路が交錯するように立ちはだかり、河堀稲生神社からは隔絶された場所になっているが、線路で隔たれる前は、河堀稲生神社のお膝元だったのだ。

 

 

境内には、猫間川の主のような気性の荒い猫が住み着いている。

うかつに近づくと、総毛を逆立てて「お前、何しに来た!」と一喝されるので要注意!
2004年7月撮影)

 

 

 

 

河堀稲生神社の南側を通り抜けた水路は、玉造筋を越えてJR環状線寺田町駅方面に流れていた。

 

 

JR環状線寺田町駅のホームの中央付近を潜り抜けて、さらに東に流れていた。

大阪環状線のルーツである城東線の天王寺→玉造間が開通したのが明治二十八年五月のことで、当然のことながら水路のほうが歴史が古く、線路はこの水路を跨いで敷設されたのだ。

戦後、環状線の旅客輸送量が増えて電車の編成が長くなるにしたがって、ホームを継ぎ足して延長したため、現在では駅のホームがガードの上を跨ぐようになっている。

 

 

天王寺区天王寺町北二丁目5付近から西側を見る。

JR環状線寺田町駅方面から、緩やかなカーブを描きながら、源ヶ橋西の交差点まで続いている。

 

 

 

勝山通の源ヶ橋の交差点付近で猫間川に合流していた。

前方に見える建設中のマンションの前が源ヶ橋の交差点で、その右手が生野本通商店街の入口、かつて沖見地蔵尊が祀られていた場所になる。

 

 

 

 

源ヶ橋をはじめて訪ねたときからずっと、なぜここに「渡し場」があったのか不思議でならなかった。「渡し場」というと、矢切の渡しや、現在も天保山にある安治川の渡しなどのように、川幅が広くて、橋を架けられない場所にあるものだ、という先入観があった。ところが、かつて猫間川であった「猫間川筋」の道路の幅から見ても、渡し舟が必要なほどの川幅ではない。大正時代の記録でも、川幅は10メートルにも満たない小さな川だ。渡し舟というよりも、舟を二、三艘ほど結び連ねて板を渡せば船橋になるほどの川幅で、どう考えても「渡し場」のイメージに結びつかなかった。

 

その謎がようやく解けた。阿倍野の水郷地帯から高松を通って北流してきた猫間川の本流と、上町台地の南の雨水を集め、庚申池から流れ出した水がこのあたりで合流して、源ヶ橋付近は自然の遊水池になっていたのだった。さらに、阿倍野区のHPによれば、和気清麻呂の治水工事のときに掘られた堀江に架かっていたのが初代の源ヶ橋で、猫間川に架かっていたのが二代目の源ヶ橋だという。ということは、「堀江」を通じて、平野川をはじめとする大和川水系の河川や水路にもつながっていたことになる。つまり源ヶ橋付近は、東西南北の水路が交差する十字路だったのだ。遊水池は天然の船溜りとなって、ここを基点として人や物資を東西南北に運んでいたのだ。ただ単に、向こう岸に渡るための「渡し場」ではなくて、今でいえばさしずめ「タクシー乗り場」のような旅客・貨物ターミナルだったのだ。

 

 

 

 

 

 

文:安井邦彦

無断転載を禁じます。 Copyright © 2004 Ringo-do , All Rights Reserved

 

 

 

 

 

 ☜Topに戻る

 

 

 

 

次のページへ

 

 

 

inserted by FC2 system