虚構の中の猫間川

 

 

 

 

 

『鴫野の里』

 

井路川関係の資料を探しているときに、『鴫野の里』という本にであった。この本は「志宜野今昔会」という城東区鴫野在住の郷土史家たちの手により編集され、昭和五十九年十二月二十八日に発行されたもので、編集者たちが自分たちの足で調べた郷土史と、自分たちの子供のころに体験した大正から昭和のはじめの頃の鴫野が、まるでタイムカプセルのようにこの本の中にとじ込められている。昔の子供たちの遊びや、わらべ歌、懐かしい郷土料理なども収録されていて、民俗学の資料としても貴重な記録で、官製の市史などにはない手作りのオーラルヒストリー、「語り継ぐ歴史」だといえる。

 

そのなかにある「アパッチの消長」という一文のなかで、次のように述べられている。

 アパッチと呼ぶ一群のこともまた、鴫野の歴史の一コマといえよう。第二次世界大戦後、西鴫野の西南の端にアパッチと呼ばれる一角があった。

 戦後まもないころ。造兵廠の跡地において「大造事件」なるものが起こったが、この事件は、造兵廠の高官とそれを取り巻く人たちが、爆撃によって破壊された跡地に、多量に残る物資の横流し事件である。この造兵廠に目をつけた進駐軍は、めぼしいものを徴発し、それを請け負った業者がまた上前をはね、業者の中には一攫千金を得た者もあった。

 その後を管理したのが、国有地管理の大蔵省、ところがその管理者の役人の一部が、どさくさまぎれに物資をくすねたのである。当時の造兵廠跡は、まさに宝の山であったわけで、そこへ忍び込んで埋まっているガラクタを掘り起したのがアパッチの一群であった。鉄屑、水銀、金、銀のほか金属類の破片が相当量埋まっていたのである。

 掘り起した金属類を背負って、平野川を渡るためには鉄管を伝って行くか、鉄橋を渡るしかない。この作業は命がけであった。大きな荷物を背負って渡るうちに、電車にはねられたり、川に落ちて死んだ者もいた。

 

ここでいう「大造事件」とは、終戦直後の混乱期に起きた、大阪造兵廠跡地の物資横流し事件のことを指す。昭和二十二年十一月、最高検察庁による調査が開始され、二名の容疑者が起訴され懲役五年が求刑されたが、結局無罪となり真相はうやむやになってしまったらしい。終戦直後の日本国内の混乱のようすは、実際に体験していないわれわれにとっては想像の域を出ないのだが、今のアメリカ軍占領下のイラクと大差なかったはずだ。アメリカ軍に対し徹底抗戦のゲリラ戦を展開するため、物資や資金を地下に隠そうとする徹底抗戦派、それに乗じてちゃっかり物資を横流ししようとするもの、虚虚実実、騙し騙され、魑魅魍魎の跋扈する百鬼夜行の世界であったことはまちがいない。

 

『鴫野の里』には「鴫野今昔散歩道」という地図が付録についている。この地図は、編集者が自分たちの子供の頃の大正から昭和の初め頃の記憶をもとにして、その頃の鴫野の地図を昭和五十九年当時の地図の上に落としこんだもので、大正の頃にはなかった「大阪城公園駅」や「第二寝屋川」「玉造筋」があったり、また逆に「猫間川」が描かれていなかったり、矛盾したところがあるが、戦前の鴫野のようすを知ることのできる貴重な資料だ。この地図の上に、アパッチ部落があったころの昭和三十三〜四年頃のようすを落とし込んでみた。

 

 

 

@ 旧鴫野小学校城陽仮校舎。

(現在はクレオ大阪東)

A 野塚橋があったところ。

B アパッチ部落があったところ。

C 水道橋がかかっていたところ。

D 猫間川の河口があったところ。

  (現在の玉造筋「弁天橋」付近)

E 旧「弁天橋」があったところ。

  (現在のホテルニューオータニ付近)

F 「カネボウ運河」があったところ。

  (現在はさくら公園となっている)

 

 

 

 

 

虚構の中の猫間川

 

『夜を賭けて』 梁石日 幻冬舎文庫版 P16

「ある日の朝、七十歳になるヨトギ婆さんが市場籠をさげて、ふらふらとおぼつかない足どりで運河沿いを歩いて城東線の頭もつかえそうな低いガードをくぐり、百五十メートルほど先の弁天橋を渡って廃墟の中に入って行った。この頃はまだ、集落の女や子供が廃墟に入っても小遣い程度の屑鉄を拾っていただけだったので、弁天橋の守衛も見てみぬふりをしていた。」

 

 

 

現在、JR環状線の鉄橋のとなりには、玉造筋の「新弁天橋」が平行してかかっているが、昭和三十三年ころには「玉造筋」はまだ存在していなかった。鉄橋の向こう側に、OBPの高層ビル群が見える。

 

 

現在ある鉄橋の橋脚は、プレートから昭和三十五年(1960)二月〜四月に施工されたものであることが確認でき、その当時のものではない。当時の鉄橋は今よりもさらに低く、『夜を賭けて』にあるように、頭がつかえるほど低いものだったのだろう。

当時の「弁天橋」は、現在のホテルニューオータニの横にあった。弁天橋を渡ると、現在大阪城ホールの建っている場所には、当時、砲兵工廠のレンガ造りの本館がまだ残っていた。

 

 

アパッチ部落から「廃墟」に、船を使わずに行くにはつぎの三つのルートがあった。

1、城東線のガードを潜り抜け、弁天橋の警備員詰所を正面突破する。

2、城東線の鉄橋を渡る。

3、平野川(第二寝屋川)に架かる水道橋を渡る。

JR環状線の鉄橋の西側には、当時大きな水道パイプを対岸に渡すための水道橋があった。『日本三文オペラ』では、「ガス管」と呼ばれていた大きなパイプが横たわっていた。写真中央の「猫間川抽水所」の右手の護岸に、現在もその痕跡らしいコンクリート基礎のような構造物が残っている。

 

 

『日本三文オペラ』開高建 講談社「われらの文学19」 P43

"鉱山"への侵入口はガス管と平野川と弁天橋と城東線の鉄橋、この四つであったが、もっとも利用されるのは平野川であった。平野川をわたれば鉱山はすぐ対岸だし、それはさらに猫間川にも通じているから、伝馬でいけば荒野の中心部へ上陸することができた。ガス管をつたうのでは大きなブツははこべないし、鉄橋は電車が通るから危険である。弁天橋はいいけれど守衛と警官がいるから顔をたててやらねばならぬ。」

 

 

 

現在水道管は玉造筋にかかる新弁天橋とJR環状線の鉄橋との間に架設されている。おそらくは、昭和五十一年(1976)に今の新弁天橋ができたときに、水道管も移設されたのだろう。

 

(写真は新弁天橋から、OBP・京橋方面を見たところ)

 

 

『夜を賭けて』 同 P223

「集落の出入口の向かいにある小学校の屋上から望遠カメラでひねもす集落の動きを監視して出入する人間をチェックしていた。」

 

アパッチ部落の人の出入りを、屋上から監視していた小学校の校舎があった場所には、現在、大阪市立男女共同参画センター「クレオ大阪東」が建っている。現在の地図には小学校は見当たらないので、虚構の中の舞台設定かと思っていたが、その当時小学校はたしかに実在していた。

 

現在クレオ大阪東の前にある「野塚橋」の道標。

野塚橋は、アパッチ部落から外界に通じる出入り口だった。警察は小学校の屋上から、橋を行き来する人間を監視していたはずだ。

 

 

 

『夜を賭けて』の冒頭の風景描写には、あきらかに平野川(第二寝屋川)を猫間川と混同している記述があり、当初私は小説の中の猫間川は虚構の中を流れる非現実的なもので、すでに地上から消滅したはずの「猫間川」というエキゾチックな音の響きだけが、小説の舞台装置のひとつとして使われたのだと理解していた。

 

『夜を賭けて』同 P9

「城東線の京橋駅を発車すると、電車は二つの鉄橋を渡ることになるが、一つ目は寝屋川であり、二つ目は猫間川(平野川)である。在日朝鮮人最大の密集地域である生野の真ん中を貫通している平野運河が寝屋川と合流するあたりを猫間川と言い、一般的に猫間川は運河と呼ばれていた。この猫間川を境に城東線以西に大阪造兵廠がひろがっている。その猫間川も黒く澱み、川底からメタンガスの噴き出る死の川になっている。」

 

『日本三文オペラ』の中では、猫間川は砲兵工廠の跡地を流れる「運河」として描かれ、アパッチ部落の前を流れる平野川(第二寝屋川)に流れ込んでいた。

 

『日本三文オペラ』同 P24

「この廃墟のなかを城東線が横断していることはさきにいったが、その線路に沿って猫間川という名の運河がある。これは深くて、へりがほとんど崖といってよい急勾配をもち、兵器工場時代には誰もちかづくことができなかった。この猫間川は城東線に沿って荒地のなかを横断し、もうひとつの平野川という運河にT字型にまじわっている。平野川のふちは崖にはなっていないが、そのかわり底知れないほどの泥がよどんでいる。」

『日本三文オペラ』同 P100

「城東線は荒野のなかを運河の猫間川に並行して横断していた。運河は深い崖になっている。線路のすぐよこが崖である。線路と崖のあいだには田んぼの畦くらいの小道が細々とついている。」

 

小説に登場するアパッチ部落の前を流れる平野川(第二寝屋川)は、いずれも流れの澱んだ悪臭を放つ死の川として描かれている。

 

『夜を賭けて』同 P131

「一週間以上も降り続いていた雨で猫間川の水は土堤から溢れそうに満ちている。ところが不思議なことに運河の流れはまったく停滞していた。どこかで塞き止められているのか、それとも運河そのものに流れる力がないのか、相変わらず澱んだまま微動だにしないのである。」

『夜を賭けて』同 P141

「川の多い大阪はいたるところで床下、床上浸水に悩まされているというのに、集落では一軒の浸水もなかった。まったく流れのない停滞した猫間川は平野川や寝屋川の流れをどこかで塞き止めているのではないかと思えた。」

『日本三文オペラ』同 P16

「部落をでたところに川があった。城東線の鉄橋がそこをわたっていた。川は、よくわからないが、運河らしく、水はよどんだままうごかず、おそろしい腐臭があたりにたちこめて、生温かくするどく鼻におそいかかった。」

 

ところが現在の第二寝屋川(平野川)は、水質が悪くて悪臭が漂うということはないし、流れの停滞した澱んだ川というイメージはない。川は潮汐の影響を受けて満潮になると流れは停滞し、逆流現象がみられるが、ふだんは普通に下流に向かって一定の流れがある。大雨が降ると、ホテイアオイや土手に生えていた雑草といっしょに、ペットボトルなど大量のゴミが勢いよく流れ下ってゆくのを実際に見ているので、「流れのない死の川」という表現には違和感があった。はたして、魔物のすむ死の川は虚構の中の舞台設定だったのだろうか?

 

 

 

第二寝屋川の開削

 

その謎は、寝屋川水系の治水事業の歴史をたどってゆくうちに明らかになった。

「今も流れる猫間川」のなかで、明治十八年の淀川大洪水と六郷修堤碑についてみてきたが、その後も寝屋川の治水事業は「洪水との戦い」の連続だった。昭和二年には近代的な都市河川としての護岸整備事業が一応の完成を遂げ、昭和三年に記念碑が作られた。

 

 

この記念碑は「六郷修堤碑」といっしょに、放出大橋の南詰めに建てられていたが、2003年の放出大橋架け替え工事のときに撤去され、現在は少し西にいったところにある児童公園の片隅に無造作に置かれている。

 

碑文の詳細をご覧になりたい方は、こちらをクリックしてください。

 

 

 

戦後の寝屋川水系の治水事業は、これまで北河内方面・中河内方面の水を寝屋川が一手に引き受けていたのを改め、淀川に近い北河内方面の雨水は既存の寝屋川に排水し、楠根川や長瀬川など旧大和川水系の南側の雨水は、新しく開削する第二寝屋川に集めて水流を二分するというのが基本構想だった。

 

第二寝屋川の改修工事は昭和二十九年(1954)に着工され、十五年の年月を費やして昭和四十四年(1969)に完成した。大阪府寝屋川水系改修工営所が昭和四十三年十一月に発行した『第2寝屋川改修の概要』という冊子によると、平野川合流点より下流部の改修工事がほぼ完成したのが昭和三十三年三月、平野川合流点より平野川分水路までの新川開削に着手したのが昭和三十四年三月、平野川分水路までの用地買収がほぼ完了するのが昭和三十六年三月、平野川合流点より平野川分水路合流点まで延長1200メートルが完成して通水したのが昭和三十七年九月、ということになっている。つまり、昭和三十七年九月に通水するまでは、平野川合流点から平野川分水路合流点までの第二寝屋川は存在していなかったのだ。

 

 

 

この写真は平野川合流点下流の右岸、つまりアパッチ部落の付近から、下流を撮影した改修前の平野川。

(『寝屋川水系改修のあゆみ』(第一集)より)

当時の川幅は25メートルであった。撮影時期ははっきりしないが、大阪府寝屋川水系改修工営所の前身である、寝屋川調査事務所が河川課にできたのが昭和二十七年五月のことで、それより後であることは間違いない。戦前に砲兵工廠付近の風景写真を撮ろうものなら、憲兵隊にスパイ容疑で引っ張られたはずである。

この写真に写っている鉄橋は、『夜を賭けて』の冒頭で登場する、頭を低くしなければ潜り抜けられないほど低かったという鉄橋にちがいない。

 

 

この写真はほぼ同じ場所から撮った改修後の平野川。

(『寝屋川水系改修のあゆみ』(第一集)より)

川幅を広げる改修工事が完成した昭和三十三年三月頃に撮影されたもので、中央左端に半分だけ写っているのが大阪城の天守閣。下流部に横一文字に架かっているのは、おそらくは水道橋の大きなパイプだと思われる。なぜなら、新しい鉄橋は昭和三十五年二月〜四月の施工であることがはっきりしているからだ。この冊子は昭和三十五年三月に発行されたもので、編集の段階で完成した新しい鉄橋の写真を入手することは不可能だ。

 

 

当時の平野川の護岸はコンクリート製のブロックを積み上げた傾斜になっていて、川岸には船を係留して、人が乗り降りしたり、荷物を上げ下ろしするためのスペースが確保されている。現在のように垂直に切り立った構造にはなっていない。

第二寝屋川の開削のために、平野川下流部の川幅が25メートルから48メートルに広げられたのが昭和三十三年三月で、そのころにはまだ新しい鉄橋は完成していなかった。つまり、アパッチ部落の前の川幅は広くなったが、新しい鉄橋が完成するまでの一時期において、ちょうど砂時計の中央部のくびれのように、城東線の鉄橋のところでボトルネックになっていたのだ。小説の中で描かれた、流れのない停滞した死の川が出現した原因は、これにちがいない。

 

 

 

現在、第二寝屋川には二つの「平野川橋梁」が架かっている。

写真の右側の白い鉄橋は、車両基地に出入するための専用線路の鉄橋で、単線である。左側の鉄橋は環状線の内回り・外回りの線路で、赤い錆止め塗料が塗られている。

白い鉄橋はさきほど見たように、昭和三十五年(1960)二月〜四月に施工されたものであることが分かる。

 

 

赤い鉄橋は、プレートがどこにあるのか確認ができなかったので、正確な時期は不明だが、環状線が複線電化で全線開通した昭和三十六年四月までには、完成していたはずである。

昭和三十五年四月に白い鉄橋が完成すると、城東線は迂回ルートを通って一時的に白い鉄橋を利用した。その間に古い鉄橋は撤去され、ボトルネックであった川幅は48メートルに広げられた。そして、古い鉄橋の跡に新しく環状線のための複線の鉄橋(現在の赤い鉄橋)が架けられた。これらの工事は一連の、または同時進行の突貫工事だったと思われる。さもなければ、昭和三十六年四月の環状線の全線開通に間に合わない。

 

 

これは昭和十七年の地図で、改修工事前の平野川と猫間川、千間川の位置関係は、ほぼこのとおりのままだったと考えてよい。

 

 

@ 猫間川合流点

A アパッチ部落

B 平野川

C 野塚橋

D カネボウ運河

E 千間川合流点

 

 

 

千間川は明治の初年に、平野川と高井田を結ぶ井路川(多目的農業用水路)として開削された人工の河川で、その長さが約1000間であったことから「千間川」と名づけられた。戦後周辺地区の都市化により、水田がなくなって灌漑用水路としての使命を終え、農作物や下肥を運搬する必要もなくなり、また生活排水が大量に流れ込むことにより水質汚染も著しく進んだことから、昭和四十二年(1967)から暗渠化工事がはじまり、昭和四十六年(1971)には完全に暗渠となった。現在、川筋の跡は緑陰公園として整備されている。

 

 

 

もともと猫間川は、大正十二年に完成したバイパス水路により、上町台地や鶴橋以南の水は直接平野川に排水し、鶴橋以北の水しか流れ込まなくなっていたので水量は少なかった。また、平野川には以前は東大阪の高井田方面から千間川の水が流れ込んでいたが、昭和三十三年に平野川分水路(城東運河)が完成して、その大部分が新しい平野川分水路に排水されるようになり、平野川下流部の流水量は格段に少なくなっていた。

 

アパッチ部落前の平野川は、第二寝屋川開削のために川幅は倍近く広くなったのにもかかわらず、逆に流れ込む水量は以前より少なくなっていた。しかも城東線の鉄橋のところでボトルネックになっていたため、アパッチ部落前の平野川は慢性的に流れのない停滞した状態が出現したのだった。いくら大雨が降っても、結果としてアパッチ部落前の平野川の水位が上昇しなかったのは、大雨で増水した分がそっくりそのまま、平野川分水路を通じて寝屋川に排水されたからだった。

 

 

 

 

昭和三十五年の平野川合流点付近。

(『寝屋川水系改修のあゆみ』(第一集)より)

@ 城東線の線路、右手が京橋駅方面。

A 砲兵工廠の鉄骨がむき出しになった工場の残骸。

B 改修工事の完了した平野川(第二寝屋川)、川幅48メートル。

C 墓地。この墓地の移転交渉が難航して、工事がなかなか進まなかった。

D 架け替え工事中の城見橋。

E し尿運搬船。下水処理場がなかった当時、し尿は直接大阪湾に投棄されていた。

 

 

昭和三十七年九月、平野川合流点から平野川分水路合流点までの第二寝屋川が完成して、平野川分水路からの水が流れ込むようになり、平野川下流部の停滞は大きく改善された。つまり、昭和三十三年頃から昭和三十七年九月までの限られた一時期、アパッチ部落前の平野川は、小説に描かれたような流れのない澱んだ状態になっていたのだ。

 

『夜を賭けて』同 P188

「午後三時頃、みんなの意表を突くように徐達司の水死体がはるか上流の寝屋川と分岐する地点にヌーッと浮かび上がってきた。」

 

私はかつて「OBPから森ノ宮」のなかで、『夜を賭けて』に描かれている猫間川逆流のメカニズムについて、ひとつの仮説を提示した。その当時私は、『夜を賭けて』の中の「猫間川」は、猫間川と猫間川河口付近の平野川(第二寝屋川)をひっくるめて総称しているのだと理解していた。したがって、猫間川は上流で寝屋川につながっていた、という表現は正しくなく、徐達司の水死体が見つかったのは、玉造から森ノ宮の間の猫間川だろうと推測した。

 

しかし、『夜を賭けて』の中で「猫間川」や「運河」として描写されている川についてもういちど読み直してみると、この川は猫間川ではなく、平野川を指していることが明らかになった。これまで頭の中に描いていた地図を、すこし東にずらして考えなければならなくなった。そうすると、平野川の上流は寝屋川につながっている、という記述はどのように理解すればいいのだろう。

 

 

 

 

当時鴫野には鐘紡大阪工場があって、原料や製品の輸送のために寝屋川から運河を引き込んでいた。地元では通称「カネボウ運河」とよばれていたもので、現在は埋め立てられてその一部がさくら公園となって残っている。しかしこれは、平野川には直接流れ込んでいなかったようで、もしつながっていたとしても「思いがけず、はるか上流でみつかった」というには近すぎる。

 

写真は「カネボウ運河」に架かっていた城東橋の跡。かつての運河の跡は「さくら公園」になっている。

 

 

平野川の上流部分で寝屋川につながっている可能性があるとしたら、千間川合流点付近以外に考えられない。「分岐する地点」という表現にも、ぴったり符合している。千間川は平野川分水路を通じて寝屋川につながっているので、寝屋川の支流のひとつと考えることは間違いではない。『夜を賭けて』の中で徐達司の水死体が発見されたという舞台は、おそらくこの付近だろう。現在、千間川は埋め立てられて、合流点の跡地には小さな児童公園ができている。児童公園には小さなお地蔵さんがあるが、地元の方に尋ねてもその由緒はよくわからなかった。

 

写真は千間川合流点跡にある公園。

右手に見えるのが「中浜西地蔵」。

 

 

『夜を賭けて』同 P190

「確かに摩訶不思議な現象である。あとでわかったのだが、猫間川はあれだけの大雨のときでも流れを塞き止められているかのように下流へ流れることはなく、逆に引き潮になると寝屋川の流れに引きずられるようにして逆流するのであった。この猫間川の性質が徐達司の遺体を上流へ連れ去ったのである。」

 

引き潮になると上流に向かって川が逆流する、というメカニズムについては、すでに「OBPから森ノ宮」のなかで述べたとおりである。ただし、「猫間川の河口付近がヘドロの堆積物で川床が上がっていた」、というところを「城東線の鉄橋のところでボトルネックになっていたため」に置き換えなければならない。引き潮になると寝屋川の水位が下がり、それにつられて平野川分水路の水位が下がり、それに引っ張られて千間川が逆流し、さらにそれに引きずられるようにアパッチ部落の前を流れる平野川が上流に向かって逆流したのだった。

 

 

 

もともと現在のJR放出駅の南側に広がる貨物線の操車場跡地は、かつては新開池と呼ばれた大きな自然の遊水地だった。長瀬川や楠根川などの東大阪からの河川は、いったん新開池に注ぎ込んでから寝屋川に流れ込んでいて、ちょうど新開池が水位調整池の役割を果たしていた。その後新開池は国鉄の貨物線の操車場になり水位調整の機能はなくなったが、平野川分水路の完成により、新しくできた平野川分水路が水位調整池の役割を受け持つことになり、干満の影響がより上流部分にまで及ぶようになったのだ。

JR貨物線の跡地は、都市開発事業による工事がすすめられている。

2005年10月撮影)

 

 

 

このように、当初「OBPから森ノ宮」のなかで考えていた猫間川は不正確なものだった。もしも『日本三文オペラ』から読みはじめていれば、また違った文章になっていたかもしれないが、地元で生まれ育った人間ではないので土地勘もなく、ずいぶん遠回りをしてしまった。

 

否、逆に『日本三文オペラ』から読みはじめていれば、私の猫間川探検ははじまらなかったに違いない。最初にお断りしたように、好奇心という名のカヌーに乗って、上げ潮に乗じて遡り、引き潮に任せて流れくだり、ときどき杭に引っかかっては小休止、その過程を川面からの視線で描きたかっただけで、もとより「正解」を書くことが目的ではなかった。したがって、「OBPから森ノ宮」の修正加筆は必要最小限度にとどめ、試行錯誤の過程をそのままに残すことにした。

 

 

(本探検記では旧平野川の寝屋川合流点付近の区間を、原則として、第二寝屋川が未完成の昭和四十四年以前を「平野川(第二寝屋川)」、第二寝屋川が完成した昭和四十四年以後を「第二寝屋川(平野川)」、また猪飼野あたりを南北に流れる区間を「平野川」と表記して区別することにする。)

 

 

 

 

 

文:安井邦彦

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