今も流れる猫間川

 

 

 

 

 

 

 

明治以降の猫間川の歴史は、大阪市における下水道事業の発展の歴史でもあった。かつて花見客で賑やかだった猫間川堤を流れていた猫間川が、明治以降の近代化の流れの中で、どのような変遷をたどっていったかを、もういちど時間を追って見てゆくことにしよう。

 

 

井路川

 

「井路川(いじがわ)」というのは、河内地方の田園地帯を流れるクリークのことで、柏原船や剣先船などの幕府の認可を受けた株仲間の運送業者の川舟や、野菜や下肥などを運ぶ農家の田舟、「井路川舟」が往来していた。猫間川もそのような「井路川」のひとつであった。

 

 

 

永代浜の干物問屋に荷揚げされた「干鰯(ほしか)」は、「井路川」ネットワークを通じて、北河内・南河内に運ばれ、綿花栽培の金肥として用いられた。

 

(写真は「永代浜跡」碑のある靱楠永神社)

 

 

上方落語の「牛の丸薬」では、干鰯屋の番頭になりすました男が、言葉巧みに粘土でこしらえた丸薬(がんじ)を、牛の流行り病の特効薬だと偽って、高い値段で売りつけるようすを滑稽に演出している。舞台は明治の末頃(おそらくは日露戦争より後)の北河内で、以前訪ねた比賣許曽神社の胞衣塚に、大正元年に肥料組合中が奉納した石柱があったことからも、当時は干鰯を使った綿花栽培が盛んで、井路川のネットワークを使って大量の干鰯が運ばれていたことがしのばれる。

 

国産の綿花は繊維の毛足が短く、機械にかけて撚糸するとブツブツと切れてしまい、つなぎ直すのに手間がかかる上、つなぎ目だらけになって肌触りが悪い二級品にしかならず、機械化による大量生産には適さなかった。そこに、エジプト綿といわれる繊維が長くて織上がり柔らかな、安価な輸入綿織物が大量に出回るようになるにつれて、商品としての競争力を失い、大正の末頃にはしだいに市場から姿を消していった。

 

 

北河内から南河内にかけての井路川ネットワークは、鉄道やトラックなどの輸送手段がなかった時代には、物流のメインルートであった。井路川の隅々までの物流を担ったのは、剣先舟を小ぶりにした、小回りの利く「井路川舟」であった。

 

写真は鴻池新田会所跡に展示されている「井路川舟」。井路川ネットワークのエリアは、古墳時代の「河内湖」の周辺をカバーする広大なもので、現在のわれわれが想像するよりもはるかに広範囲にわたっている。

元禄十一年(1698)には、河村瑞賢により十三間堀川が開鑿されて、大和川と住吉が水運で結ばれ、井路川ネットワークに組み込まれた。

 

 

古墳時代の「河内湖」は、現在の淀川、寝屋川、大和川のすべてが流入していた巨大な湖だった。カンボジアのトンレサップ湖がそうであるように、湖の周辺にある集落間の交通手段は小船で、当時は丸木舟で人や物資が往来した。このようにして、古代の河内湖があった周辺には、「河内弁」を共通言語とした河内文化圏が形成されていった。

 

写真は、大東市御領に今も残る井路川の水路。

2005年6月撮影)

 

 

北河内の最北端は、枚方の北に位置する、現在の宇治市を含む旧京都府綴喜郡の付近までが含まれる。そこは、干拓事業により昭和十六年に消滅した、巨椋池という巨大な池があったところだった。

 

 

宇治の県(あがた)神社の暗闇祭りは、日本の奇祭のひとつで、神事の間はいっさいの灯火が禁忌となり、まったくの暗闇の中で執り行われる。暗闇の中の出来事はすべてが神事(かみごと)であり、いっさいが無礼講となるという奇祭である。祭の当日には、河内じゅうから善男善女がお参りに来たという。モンゴルの草原の祭典ナーダムには、広大な草原のあちこちから老若男女が集まり、婿選び嫁探しがはじまるように、「歌垣」の時代から、若い男女の交流の場であったのだろう。昭和の初め頃までは、暗闇祭になると河内じゅうの親分衆が集まって、暗闇の中で盛大な賭場が開帳されたという。伝統的な神事ということで、警察も見て見ぬふりをしていたという話が伝わっている。

 

 

日本一の品質を誇る宇治茶をつくりだしたのは、井路川ネットワークで運ばれてきた干鰯や身欠きにしんなどの金肥のはたらきによるところが大きい。京都の南座前の有名な「にしんそば」は、もともとは宇治の茶畑農家が、身欠きにしんを茶殻で煮て柔かくしたものを、あまからく炊いて作った「しまつ料理」、にしんの甘露煮をのせたものである。

 

明治維新までの猫間川は、このような井路川ネットワークの一端を担っていた。

 

明治以降、大阪が近代的な都市へと発展を遂げるにしがたい、新たな問題として持ち上がってきたのが、都市人口の拡大による生活廃水の増加であった。ペストなどの伝染病が流行するようになると、都市の汚水対策は焦眉の急を要したが、明治初年の頃は土木技術が未発達であったため、現在の下水道網のような大規模な地下構造物を作ることもできず、大量の汚水を浄化処理する技術力もなかった。そこで採られたのが、かつて太閤秀吉が作らせたという背割り下水を改造したり、井路川を利用して汚水を排水することだった。

 

 

明治二十七年〜三十四年にかけて背割り下水の改造工事が行われ、その底部をコンクリートでU字形に固め、石垣の隙間に漆喰を詰めて防水して、蓋をかぶせて暗渠とし、再利用して急場をしのいだのだった。その一部は、現在も下水道として使われている。

 

(写真は『写真で見る大阪市下水道100年のあゆみ』より。)

 

 

背割り下水などの既存の施設がなかった新興の市街地では、当時「悪水」と呼ばれた生活廃水などの下水は、「樋」というの排水溝を通って「井路川」に集められ、直接自然河川に排出していた。その場合、ちょうど現在の下水道が「汚水」と「雨水」の二系統に分かれるように、悪水を集めて流す「悪水井路川」と、雨水や灌漑用水などのきれいな水を流すための「井路川」に区別されていた。

「悪水井路川」は、水量の大きな河川と2つで1セットになっていた。つまり、「悪水井路川」で集められた悪水は、できるだけ下流に運んで、水量の大きな主流河川に流し込んで希釈し、あとは自然の浄化能力に任せるというシステムだった。その頃には、道頓堀川でさえ鰻や鮎の稚魚が遡上するのを見ることができたというから、一部の河川を犠牲にして全体の水質環境を維持するという方法は、当時としては合理的な方法だったのだ。

 

明治十八年の淀川大水害では、六月初めから長雨が降り続き、流域河川の水位が上昇しているところに、十五日から十七日にかけての集中的な豪雨により、ついに枚方付近の淀川左岸と天野川の堤が決壊し、濁水が北河内一帯を呑み込み、一夜にして巨大な湖が出現した。このあたりは大和川の付替え前には、古墳時代の河内湖のなごりである深野池という巨大な湖があったところであった。溢れ出た濁水は守口一帯まで呑み込んで、梅雨空の下、水位はなかなか引かなかった。

 

 

 

写真は鶴見区焼野の古い農家にある、「段蔵」と呼ばれる土蔵で、水害に備えてあらかじめ石垣で高くしている。このあたりの農家では、昔は軒先に「揚げ舟」といって、水害時の緊急避難用の小舟が吊るしてあった。

2005年6月撮影)

 

 

そこで昔から伝わる「わざと切り」という手法を用い、現在の網島町の旧藤田邸跡公園(桜之宮公園)の北あたりの大川堤を切り開いて、溢れた濁水を大川に排水しようとしたが、これが逆効果になってしまった。六月二十八日から七月一日にかけて、追い討ちをかけるように再び激しい雨が降り続き、七月二日には各所で堤防が決壊し、「わざと切り」からは大川の水が逆に流れ込み、寝屋川の水は堤防を越えて鯰江川をひと呑みにし、北河内一帯から大阪東部、中河内にかけて、未曾有の大水害になってしまった。

 

 

写真は大阪市長公邸付近の大川のほとりにある「水防碑」。「災害は忘れたころにやってくる」の警句が刻まれている。

 

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徳庵橋の南詰めには、当時の惨状を後世に伝えるために明治十九年に建立された石碑が現存する。

徳庵付近では、仮堤防を築いて必死の防戦を試みたが、自然の猛威の前にはひとたまりもなく、堰を切った濁流はたちまちあたりを呑み尽くし、まるで古墳時代に逆戻りしたように、巨大な河内湖が出現した。若江、河内、渋川の三郡五十余村では合計一万二千四百余人が被災し、付近の寺や学校で避難生活を余儀なくされた。

 

写真は徳庵橋南詰めの「明治十八年洪水碑」(2006年5月撮影。)

 

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明治十八年の淀川大水害により、淀川の大規模な改修工事の計画が立てられた。下流の蛇行している河道をまっすぐにし、川幅を拡張して大水を直接大阪湾に注ぎ込むようにする大プロジェクトであった。そのためいくつもの集落が川底に沈むことになり、移転や補償交渉は難航した。明治二十九年にようやく工事の測量が着手され、途中日露戦争をはさんで、明治四十三年にようやく工事は完成して、淀川は現在の河道になった。

 

写真は毛馬閘門の横にある「淀川改修紀功碑」(2005年9月撮影)

 

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「淀川資料館」から紀功碑の資料を提供していただきました。

 

 

寝屋川下流の改修工事も同時に進められ、左岸には徳庵橋から放出にかけて、「六郷堤」が作られた。工事は明治二十二年五月から四年の歳月とのべ六万人、当時の予算で一万円あまりの巨費が投じられた。この工事に尽力した榎本村の村長大橋房太郎の功績を記念して、「六郷修堤碑」が阿遅速雄神社に建てられた。その後碑は、放出大橋の南詰めに移設されたが、2003年の放出大橋の付替え工事にともない撤去され、現在は大橋房太郎の菩提寺である正因寺の境内に移設されている。

 

写真は正因寺の「六郷修堤碑」(2005年8月撮影。)

 

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(封建時代のなごりを色濃くとどめる明治のはじめの農村と、生まれたばかりの近代国家との関係を知るうえで、貴重な資料といえる。地元の陳情による公共事業の誘致という、それまでにはなかった新しい手法がどのようにして生まれたか、生々しいようすを今に伝えている。)

 

現在の「六郷井路」は、徳庵橋の南で「五個井路」といっしょになって、寝屋川に合流しているが、当時の六郷川は、寝屋川の六郷堤の南を並行するように流れていた。さらに、六郷川のすぐ南側には、並行するように「今津放出悪水路」が流れていた。

現在、徳庵橋の南から今福まで、寝屋川南岸の堤防沿いにまっすぐ伸びる道路が、かつての六郷川や今津放出悪水路の跡になる。

 

 

当時の分類

当時の呼称

現在に例えると

一般河川

寝屋川

一級河川

井路川

六郷川

多目的農業用水路

悪水排水路

今津放出悪水路

下水道

 

このように、明治のはじめ頃には、河川や水路を三つに分類して管理していた。ところが、大正から昭和の初期になると、都市人口の増大により市街地が拡大し、周辺の田園地帯を呑み込んでゆき、本来多目的な農業用水路であった「井路川」の多くは、新興の住宅地帯から排出される生活廃水を流すための排水溝へと変身し、「井路川」といえばドブ川の代名詞というイメージが定着するようになった。

 

 

一般河川

平野川・寝屋川

主流、水量大

雨水、きれい

主、陽、善

悪水井路川

猫間川・鯰江川

支流、水量小

汚水、汚い

従、陰、悪

 

 

寝屋川の北岸を沿うように流れていた鯰江川は、鶴見、今福、蒲生一帯の悪水を集め、現在のJR環状線京橋駅のプラットホームの下を通って、野田橋を潜り抜け、片町付近で寝屋川に合流していた。

 

 

 

 

上方落語の「野崎参り」では、喜六・清八の二人連れは、城の馬場をつっきって、京橋を渡って片町から寝屋川と鯰江川の間の堤を東に向かい、徳庵堤で舟に乗り込む、という設定になっている。もちろん、八軒家から直接船に乗って大川に出て、片町から鯰江川に乗り入れることも可能だった。かつては、「野崎参り」の屋形船が通っていたであろう鯰江川も、都市化の波に呑み込まれ、昭和のはじめ頃には猫間川同様、悪水の水路へと変貌を遂げていった。

 

 

京阪電車の寝屋川市駅前を流れる寝屋川に、並行するように流れる友呂岐(ともろぎ)水路がある。大利商店街の中に、その水路に架かる小さな橋があり、そのたもとにかつてこの水路が「悪水井路川」であったことを示す石の標識を見つけた。

 

友呂岐悪水路   (右端に小さな文字で)

惡水井路□ (一番下の文字は地面に埋もれて判読不能)

裏側には、明治四十二年四月架設の文字が、かろうじて判読できる。

 

 

 

 

『東成区史』(昭和三十二年四月三十日発行)P114にある猫間川の写真。撮影場所、時期は不明。

猫間川は天保八年(1837)に川浚(かわざらえ)があった後、本格的な河川改修の記録はなく、自然堆積により川床が上昇し、鋤簾(じょれん)による維持管理も行き届かなくなって、しだいに水運の水路としての機能を失っていった。さらに追い討ちをかけるように、水源地であった阿倍野一帯の都市化が進んで水量が減少する一方で、上町台地東側の市街地から排出される生活廃水が増加して、『東成郡誌』が編纂された大正十一年頃には、もはや猫間川はもっぱら悪水を排出する「井路川」となっていた。

 

 

ほぼ同じような地域を並行するように流れる平野川と猫間川ではあったが、その運命は対照的だった。猫間川は平野川に比べ、生活廃水の発生源である市街地により近い場所を流れていたことと、水量が平野川に比べ少なかったことが災いして、もっぱら「悪水井路川」として用いられることになったのだ。このような人為的な取捨選択による役割分担の振り分けの結果、城東区のHPにあるように、平野川は場所によっては戦前まで人が泳げるようなきれいな川であったという反面、悪水を一手に引き受けて犠牲となったのが、猫間川だった。

 

猫間川にとってさらに不幸だったのは、森之宮から下流には右岸に城東練兵場、左岸に砲兵工廠があったことだ。軍事機密の保持のため、一般人の立ち入りが厳しく制限されていたので、住宅地のように生活環境への影響を考慮する必要がなかった。また、軍需工場であったため、生産がなによりも最優先され、工場の廃棄物や汚染物質も、ほとんどそのまま猫間川にたれ流しにされ、省みられることがなかった。かくして、昭和のはじめ頃の猫間川は、「大阪でいちばん汚い川」の汚名をいただくことになった。

 

 

 

「大阪市河川汚染度調査図」によると、濁度、色度、アンモニア、アルカリ度、溶存酸素、酸素消費量、細菌数などの各項目を総合して、淀川を「1」とした場合の比較数値を表している。猫間川は、赤川と並んで、「15以上」の最悪のランクに位置づけられている。

 

(昭和13年5月、大阪市保健部『河川浄化について』より)

 

 

 

天保の頃には花見の名所であった猫間川が、その後「悪水井路川」のレッテルをつけられて、ドブ川へと身を落としていったのは、このような人為的な原因によるものであったことを記憶しておかなければならない。「猫」に罪はないのである。

 

 

暗渠化工事のはじまり

 

大正になると大阪市の都市人口はさらに増加し、近代的な都市が形成されてゆくようになると市街地から排出される悪水の量も増え、これまでのような自然の浄化能力にたよる方式にも限界が出てきた。コレラなどの伝染病の流行を予防するためにも、近代的な下水道の整備が焦眉の急務となっていった。そこで大阪市は大正十二年に、今後の下水道事業のマスタープランとなる「大阪市下水処理計画」をとりまとめた。これは大阪市を「北部処理区」「中部処理区」「南部処理区」「東部処理区」の四つの区画に分けて、幹線下水道網を整備して、各区の下水処理場で処理を行う画期的な計画で、下水処理場には1914年(大正三年)に初めて英国で開発されたばかりの「活性汚泥法」という、当時の世界の最新技術が採用されていた。

 

 

 

 

『大阪市下水道事業誌・巻一』(P204より)

処理区

区 域

面積 (ha)

計画人口(人)

北部処理区

新旧淀川に挟まれた区域

2,128

678,456

中部処理区

淀川、安治川以南、木津川、関西本線以北、上町台地以西

3,541

1,228,412

南部処理区

関西本線以南、大和川以北

2,453

615,827

東部処理区

上町高台以東

5,316

1,414,645

 

13,438

3,937,340

 

 

第五期下水道事業(昭和1219年)における猫間川暗渠化工事の写真。

 

『写真で見る大阪市下水道100年のあゆみ』

(大阪市下水道局編集、平成61130日発行)

 

 

 

猫間川周辺の都市化はさらに進み、水量が減少するのに反比例して生活廃水が増加した。家庭から出る汚水は、土管を通じて直接猫間川に流し込んでいたのがよく分かる。石垣の下には、投棄された雑多なゴミがうずたかく堆積している。いったん大水が出ると、これらの汚水や汚物は鉄砲水となって溢れ出したのだった。そして、「臭いものに蓋」をするように、大正末から昭和初期にかけて、猫間川の暗渠化工事がはじまったのだった。

 

撮影場所や時期は不明。丸太の足場の奥には、背広姿の役人風の男が六,七人、工事のようすを監督するように立っている。足場の前には、スカートをはいた女の子が、ものめずらしそうに足場を組む様子をながめている。これらの服装に戦時色が見られないので、大正末期から昭和初期の写真であると思われる。商品の配達をしているのだろうか、自転車に乗っている人が写っている。全国の自転車保有台数が500万台を越えたのが昭和三年(1928)のことで、この写真を大正末期から昭和の初年のものだと推定することに矛盾しない。道路の幅も荷車がすれ違うことができる程度のもので、自動車のための道路ではないことは明白だ。護岸の石組みの方式が、以前JR玉造駅の南側で見つけた石組みに酷似しているのは興味深い。

 

よく見れば、「男女口入」(口入屋)の看板の隣に、「尾笹歯科医院」の看板が見える。場所と時期を特定できるヒントになればいいのだが。「口入屋」というのは、今風にいえばアウトソーシング、人材斡旋派遣業にあたる。「口入屋」、「仔猫」など、上方落語にはよく登場するおなじみの店で、丁稚、女中、家政婦、子守などの奉公人や料理人などの専門職を周旋して手数料を取っていた。

 

今では古典落語の範疇に入っている「代書」は、桂米朝の師匠である四代目桂米団治が昭和十四年ごろに作った新作落語で、少々頼りない主人公が、代書屋で履歴書を書いてもらうという設定になっている。そのなかで、主人公が一時期「ガタロ」をやっていたというくだりがでてくる。「ガタロ」というのは、「カワタロウ」が訛ったもので、漢字で書くと「川太郎」と書く、大阪弁の河童をさす言葉である。当時、大阪の河川や掘割に胸まで水に浸かって、くず鉄などの廃品を回収して生計を立てていた人たちがいた。そのようすが河童に似ていたことから、「ガタロ」と呼ばれていた。大正の末期から昭和の初期にかけて、ちょうど猫間川の暗渠化工事が進められていた時代の大阪の川景色である。

 

 

 

猫間川改修の経過

 

区  間

工事の種類

時  期

出 典

鶴橋町大字木野より下流黒門橋に至る

猫間川改修工事

杉材又ハ石材ヲ以ッテ護岸築造川床掘下橋梁架替等

大正88月〜

大正95

『東成郡最近発達史』

鶴橋町大字木野より下流黒門橋に至る

猫間川改修工事

一部石垣補修

大正98

 

『東成郡最近発達史』

鶴橋町大字木野より下流黒門橋に至る

猫間川改修工事

浚渫及護岸補修

大正116月〜7

『東成郡最近発達史』

鶴橋町大字木野より下流黒門橋に至る

猫間川改修工事

浚渫

大正137月〜

10

『東成郡最近発達史』

鶴橋町大字木野より上流源ヶ橋に至る

猫間川改修工事

石垣護岸築造、橋梁架替、

川床浚渫等

大正1110月〜

大正123

『東成郡最近発達史』

鶴橋町大字木野より平野川に至る

附帯工事

分流暗渠築造道路修築橋梁架替等

大正1110月〜

大正125

『東成郡最近発達史』

下記@の附帯工事と同一

@、猫間川から旧平野川への暗渠放水路

  (聾学校→川田橋)

大正十年度下水道改良工事

附帯工事

大正1112

『大阪市第一回下水道改良誌』

A、細工谷より鶴橋線の暗渠化工事

第一回失業救済事業による

大正1415

『東成区史』

B、源ヶ橋より北生野町一の六九の暗渠化工事

第三期下水道事業による

昭和3

『東成区史』

C、北生野町一の六九より勝山通付近の暗渠化工事

第一三回失業救済事業による

昭和78

『東成区史』

D、鶴橋線より玉造駅南付近の暗渠化工事

第一五回失業救済事業による

昭和89

『東成区史』

E、中央部一五〇米の暗渠化工事

第一七回失業救済事業による

第一九回失業救済事業による

昭和9

昭和1011

『東成区史』

F、勝山通より細工谷の暗渠化工事

第五期下水道事業による

昭和1219

『東成区史』

G、玉造駅南付近より黒門橋の暗渠化工事

第五期下水道事業による

昭和1219

『東成区史』

 

 

『大阪市第一回下水道改良誌』にある「大正十年度大阪市下水道改良工事計画説明書」には次のような記述がある。(ひらがな書きにして、読みやすいように改めた)

 

天王寺幹枝線築造;

本幹枝線築造は、大正五年度認可実施設計に基づき、前年度に引き続き工事を施行せんとするものにして、第三十五号線は在来の井路敷に敷設予定なりしも、大阪市電気鉄道の開通に伴い、その通路に沿うこととせり。

玉造幹枝線築造;

本幹枝線築造は、大正五年度認可実施設計に基づき、前年度に引き続き工事を施行せんとするものなり。

猫間川改築工事;

本工事は、天王寺及び玉造両幹枝線築造工事の進捗に伴い、下水道改良事業の付帯工事として施行せんとするものなれども、用地その他に関し、大阪府東成郡鶴橋町との間に猶幾多協議を要する事項これあり、右決定の上、さらに工事施行認可を申請するものとす。

 

同じく「付帯工事トシテ施行スル猫間川改修工事計画説明書」には、猫間川改築工事について、次のような補足説明がある。

 

本市南区下水道改良工事施行に伴い、天王寺、上町及び玉造方面の雨水は比較的短時間に猫間川に排出し、これが為鶴橋町における浸水被害を増大するに至りたる結果、本市はさきに同町と協議の上応急手段として、南区天王寺東上町より東区黒門町に至る約八百四十間の浚疏工事を施行せしも到底現状を救済するあたわず。さればとて同川全部にわたる、これが根本的改修を施すことは目下財政の許さざるところに属す。しかるに、最近同町ほか数ケ町村の企業に係わる耕地整理事業完成するに到れば、現在の平野川は充分の余力を有するに到るべきを以って、今回さらに同町と協議を遂げ、同町木野百五十三番地先より、同二百二十五番地先に到る里道に添い放水路を開鑿し、猫間川の負担を軽減するの計画を樹てたり。(後略)

 

大正十一年編纂の『東成郡誌』には、「時に降雨に際し、暗黒色の濁水滔々として流下し、幅員狭少なるが為め、上流鶴橋町中本町一部に於て悪水氾濫すること少なからず。」とあるように、猪飼野方面から北流する雨水と、上町台地方面から細工谷を通って注ぎ込む雨水が合流することにより、鶴橋付近で猫間川は慢性的に氾濫を繰り返していた。そこで、鶴橋付近でボトルネックになっているのを改善するため、暗渠のバイパス水路を作り、一部を平野川に流して猫間川の負荷を軽減する方法がとられたのだった。

 

『わが町天王寺』(P82)では、その当時の経緯を次のように紹介している。

 

 生野聾学校の東側を北流していた猫間川は、上町台地からの流水を引き受ける役割を果たしていたが、大正時代の中頃、上町台地東側一帯の市街化に伴い、降雨時の下水量が激増して猫間川が氾濫し、鶴橋地区が浸水するおそれが出てきた。

 

 そこで聾学校北東角の地点から、旧平野川の川田橋の所まで約四〇〇メートルの暗渠をつくり、増水した水を放流することにしたが、これについては、この余分の水を引き受ける旧平野川付近一帯に今度は被害が生じるおそれがあるので、鶴橋耕地整理組合側は容易に承諾しなかった。しかし再三にわたる話合いの結果、大阪市と組合とが共同して旧平野川の流下機能を高める工事を行うことで合意をみたのである。

 

 

 

この暗渠の大部分は昔から木野村にあった農業用水路を利用したもので、桃谷二−5−1角の「すぐいせ」の道標の北側の細道を経て、難波片江線に入り、川田橋に至るルートで、工事期間は大正十一年十月から同十二年五月であった。

 

 

 

写真は、「すぐいせ碑」の北側の細道から東に入ったところ。農業用水路の跡がそのまま道路となって、鶴橋本通商店街の入口付近まで続いている。このあたりは、網の目のように水路が走り回り、どこからどこまでが猫間川の支流か、平野川の支流か、完全に区別することは不可能だ。大雨のたびに本流が支流に変わり、支流が本流となって交錯していたので、この水路も、広義の「猫間川」の一部に違いない。

 

 

その後、このマスタープランにもとづき、第一期下水道事業から第五期下水道事業にわたり、順次予算化されて着工されていったが、昭和十九年に戦争による物資や労働力の不足などのために、緊急工事以外の下水道工事はすべて中止され、第五期下水道事業は未完成のまま終戦を迎えることになった。

 

 

戦後の総合治水対策

 

昭和二十五年、戦後の復興の槌音が鳴り響く大阪の町を、ジェーン台風が襲った。台風の強風や気圧の低下などによる高潮、高波による浸水で、死者364名、浸水家屋13万1千戸以上の大きな被害をもたらした。(大阪府警調べ)

特に浸水の被害のひどかった、寝屋川(旧大和川)水系、平野川流域一帯の浸水被害を避けるため、次の三つを柱とした総合的な治水対策を打ち出された。

 

@、新平野川の整備:平野川を改修して河道をまっすぐにし、川床を浚渫して許容流量を増やす。
主に駒川・今川方面の雨水を受け持つ。

A、城東運河の開通:平野川分水路(城東運河)を新しく開削して、平野川に流入する水量を分散させる。
主に八尾・平野方面の雨水を受け持つ。

B、猫間川の暗渠化:猫間川を改修して暗渠化する。平野川にバイパスの暗渠を通し、洪水時の水量を分散させる。
主に上町台地からの雨水を受け持つ。

 

 

 

昭和四年(1929)に着工された平野川分水路(城東運河)の開削は、戦争の激化により昭和十九年に中断したが、戦後になって寝屋川水系の治水計画の抜本的な見直しを経て、昭和三十三年(1958)にようやく完成した。

 

 

 

複雑に蛇行していた平野川の河道はまっすぐに改められた。コンクリートの護岸で固められた「新平野川」には、もはや昔の川の面影はない。

 

 

昭和三十六年(1961)二月二十八日には猫間川抽水所が完成した。京橋からJR環状線に乗って、大阪城公園駅に向かうと、OBPを過ぎて第二寝屋川の鉄橋にさしかかると左手に見える、高校の体育館のような建物がそれだ。

現在の猫間川である「天王寺森ノ宮幹線」が竣工したのは、昭和三十六年三月三十一日で、幅2350mm、高さ3300mmの馬蹄形をした幹線下水道として生まれ変わり、地下1.7メートルを流れている。晴天時には、天王寺から玉造方面の下水を浜中下水処理場まで運び、大雨のときには猫間川抽水所のポンプで直接第二寝屋川に排水するようになっている。

 

 

中浜下水処理場で浄化処理された猫間川の水は、城見橋の230メートル下流にある「吐口」から、第二寝屋川(平野川)に放出される。満潮時や洪水で水位の高いときには見えないが、干潮時には水面からわずかに排水口が顔をのぞかせている。今日ではさしずめ、ここが猫間川の河口ということになる。

 

 

中浜下水処理場のパンフレットにあるように、現在の猫間川である「天王寺森ノ宮幹線」は、JR環状線の森ノ宮駅の北側で環状線の線路の下を潜り抜け、線路の東側を沿うように流れ、猫間川抽水所へと続いている。

 

阿倍野の丘陵地を水源とし、上町台地の東裾を潤してきた千年の流れも、波乱万丈の歴史をたどった後、自然河川としての役割を終え、やっと安住の地を見つけたようだ。

 

 

 

 

 

文:安井邦彦

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