名こそ流れて猫間川

 

 

 

 

はじめて市街地図を片手に自転車にまたがり、猫間川の川筋を遡ったのは2003年の10月初旬のことだった。中道のサクラクレパスの前で、買い物帰りのふたりのおばさんに出合ったのが、実際に猫間川を見たことのある人からの、はじめての目撃証言だった。俄然、猫間川が現実味を帯びてきた。同時代に実際に体験した人から、生の証言を聞くことができたのだ。さらに猫間川筋を遡り玉造を越えたところでは、砲兵工廠で砲弾の薬莢を作っていたという、当時八十一歳のおばあさんからむかしの話を聞くことができた。このようにして、私の猫間川探検ははじまった。

 

「はじめに」でも明言しているように、もとより猫間川の水源地を探したり、川筋を確定したりすることが目的ではなかった。「川筋」にこだわると、川全体の景色が見えなくなってしまう。「木を見て森を見ず、森を見て山を見ず」とはいみじくもいったもので、「はじめから目的を設定したり、予測回答を準備してフィールドワークに出るのは、自らの視野を狭くするだけだ」、というのが、私が心の師と仰ぐフィールドワークの達人の持論だった。そのためには、「余計な先入観や予断を持たず、知識を積んで敏感なアンテナを持つように」とよく説教されたものだった。

 

 

 

 

わが師が国際学術調査隊を率いて、1978年に中国領新疆ウィグル自治区に入ったときの話だ。ヒマラヤの裏側にあたるアルタイ地区でベースキャンプを張っていると、ある日同行の地球物理学者が採取した化石を持って興奮しながら帰ってきた。彼が言うには、「これはチューブワームの化石で、とりもなおさずこの場所が大昔は海底だったことを証明するもので、大発見だ!」ということだった。わが師は化石や地球には門外漢だったが、その化石を仔細に見るうちに、気がかりなところを発見した。

 

 

化石の裏側、つまり石の表面には、ナイフを持った人の線刻画のような模様があったのだった。翌日その化石が採れた崖に連れて行ってもらうと、わが師の予感は的中し、崖一面に先住民の線刻画が描かれているのが見つかった。つまり、地球物理学者は化石しか眼中になかったので、石の表面の線刻画には気がつかずに、「遺跡」を破壊して「化石」を採取したのだった。

 

 

 

ふだんの生活で見過ごしているところにも、注意深く観察していると、猫間川の痕跡が隠されているはずだ。そう思いながら猫間川の川筋を何度も遡ると、ときどき猫間川はお地蔵さんや石垣に姿を変えて、「隠し絵」の中の「猫」のように姿を現してくれた。文献による下調べも必要だが、フィールドでの観察、とくにインタビューが重大な発見のきっかけになることが多かった。

 

最後に残った猫間川が埋められて、完全に暗渠になったのは、昭和三十二年(1957)のことで、もうすぐ半世紀になる。すでにみてきたように、猫間川の暗渠化工事は上流部の南から、しだいに下流部の北に向かって進められてきたので、南に行けば行くほど目撃証言は得にくくなる。もしも昭和三年(1928)の源ケ橋付近の暗渠化工事を目撃していたとしたら、2005年の今では九十歳前後になるはずで、もはや直接目撃談を聞くことは無理だろう。昭和十二年(1937)からはじまった「第五期下水道事業」の暗渠化工事の目撃談がぎりぎりのところだ。五年後、十年後を考えると、生き証人の証言を記録に残すのは、今が最後のチャンスなのかもしれない。

 

 

尾笹歯科医院

 

「今も流れる猫間川」の中で紹介したように、猫間川暗渠化工事の写真に「尾笹歯科医院」という看板があった。この写真でいちばん気になったのは、尾笹歯科医院の前に立っていた、スカートをはいていた女の子だった。猫間川暗渠化工事のはじまった昭和十二年頃に十歳前後だとすると、昭和一桁生まれの世代に違いない。今もご存命なら、すくなくとも七十五歳にはなっているだろう。この写真の中で、いちばん若いのは彼女だろうし、目撃談を聞ける可能性があるのは彼女だけだ。あの時分スカートをはいているのはきっと「ええしの子」(良家の子女の意)やろし、ひょっとしたら「尾笹歯科医院」のお譲ちゃんかもしれへん、と考えた。尾笹歯科医院さえ見つかれば、すべての謎は解けるように思われた。

そこで、まず場所を特定するために、中之島の図書館へ行き、当時の土地台帳から桃谷周辺をしらみつぶしに探したが、「尾笹」という名前を見つけることはできなかった。さらに、大正から昭和のはじめ頃の「紳士録」も当たってみたが、そこにも「尾笹」の名前はなかった。「尾笹」という苗字はどこにでもある名字ではないので、ひょっとしたらご子息やご親戚が、歯科医院を継いで開業されているかもしれないと思いついた。インターネットで検索をかけてみたところ、はたして、大阪の港区に「尾笹歯科医院」を見つけることができた。恐る恐るお手紙を出して、古い写真の看板についてお尋ねしたところ、お孫さんにあたる、尾笹滋之先生から思いがけないことにご丁寧なお便りが帰ってきた。ご本人のお許しを得て、お便りの一部をご紹介する。

 

"猫間川"、懐かしい響きでした。写真の尾笹歯科、間違いなく私の祖父、尾笹優夫の看板です。お手伝いできればいいのですが、優夫は、昭和22年逝去、私の父も平成6年に、2人の叔父達も亡くなっています。幼いころに聞いた記憶をたどりますと、優夫は関東大震災で焼け出されて、東京で開業していたのですが、大阪に来たそうです。また、第二次世界大戦の影響下、昭和19年には、猫間川沿いから少し東の場所へ移転したようです。口入屋の2階に間借りしていた、と父が話していたように思います。看板が、省線(環状線)からよく見えるようにしていた、と聞いていますので、写真は北から南を撮影したものと思われます。住所は、現在の生野区桃谷2−1付近です。当時の写真などは、散逸しています。父の遺品を一度確認してみます。

 

 

 

生野区桃谷2−1というと、ちょうど聾学校の向かいあたりになる。

 

「口入屋の2階に間借りしていた」ということで、どうりで土地台帳に「尾笹」の名前が見当たらなかったはずだ。

 

(左の写真は、現在の生野区桃谷2−1付近の風景)

 

 

新旧の二枚の写真を並べて見比べてみると、どちらも市街地を流れる猫間川筋の、比較的長い直線部分であることがわかる。

 

 

 

市街地であるからには、砲兵工廠のあった森ノ宮より南のはずで、消去法で考えると、中道あたりは川筋が蛇行しているので条件に合わないし、玉造から南は城東腺の線路に沿って流れていたので、景色が違う。鶴橋の駅の近くは、昭和のはじめには建物が密集した繁華街であったろうし、となると今の桃谷公園付近の「猫間川筋」のどこかだろうと推測していた。

 

 

 

 

聾学校の南は、今は桃谷公園になっているが、このあたり一帯は、かつては鵤(いかるが)牧場の牛舎があったところだ。鵤牧場は、大正五年に鵤春蔵が設立した乳牛の牧場で、「省線」と猫間川に挟まれた広い敷地を持っていた。あの写真にあった板塀は牧場の塀かなあ、とぼんやり考えていたが、あながち見当はずれではなかったようだ。

牧場は戦後に移転してなくなったが、跡地に牛乳の直売所ができて、新鮮な牛乳を製造直売していた。地元の人にインタビューすると、いかるが牛乳の話がよく登場する。

 

 

尾笹先生のお手紙では、「省線からよく見える」位置であったということなので、現在の聾学校の前の交差点の南東角あたりにまちがいない。なぜなら、猫間川筋は南に行けば行くほど、高架の線路から遠ざかってゆくからだ。「玉造から鶴橋」で紹介したように、関西鉄道が国有化されて鉄道省の直轄となったのが明治四十年十月のことで、「省線」の愛称で呼ばれるようになったのは、それ以後のことである。省線の城東線、天王寺−京橋間の高架化工事が竣工したのは昭和七年三月のことだ。

 

 

 

 

問題の写真が撮られたのは、第五期下水道事業がはじまった昭和十二年から、「尾笹歯科医院」が引越しをした十九年の間に撮られたことは間違いない。写真の人物には、服装に戦時色がないことから、第五期下水道事業がはじまったばかりの、昭和十二〜三年頃のものだと見ていいだろう。背広姿の役人風の男たちは、まちがいなく下水道局の関係者だろう。カメラ目線で立っているし、なによりもこの写真が下水道局の資料として保存されていたのが、動かぬ証拠だ。「口入屋」の看板も含め、この1枚の写真には、じつにたくさんの情報が凝縮されていたことが判明した。

 

さて、問題のスカートをはいた女の子だが、お手紙からはそれに関連した情報は得られなかった。大正十五年生まれの私の母親に、「子供の頃はどんなきものを着ていたか」と尋ねたら、京都の町家の一般庶民の子だった母は、「きものなんか着てへんで。スカートとかワンピースとかやった」、という思いがけない返事が返ってきた。どうやら町中では、ええしの子でなくても、スカートをはいていたようで、私の勝手な思い込みだったようだ。モンペを穿いて竹槍の軍事教練をやらされたのは、太平洋戦争も旗色が悪くなってきた後半あたりからだった、ということだった。

 

 

 

桃谷公園の向かいにあるたばこ屋のおばさんの話では、物心がついたころにはすでに猫間川は暗渠になっていて、暗渠化工事の写真を見てもよく分からない、とのことだった。母親なら覚えているはずだが、今は入院していて、昔の記憶も定かではないということだった。

 

 

 

商店街の文房具屋の「マキちゃん」なら知ってるかも知れん、ということで訪ねてみたが、「マキちゃん」の子供のころの遊び場のテリトリーは商店街の中に限られていたので、猫間川のあたりのことは記憶にない、とのことだった。それやったら、お向かいのおばあさんの方が九十歳で昔のことをよう覚えたはるから、ということで訪ねてみたが、ここに移ってきたのは戦後間なしのことで、戦前のことはわからへんわ、といわれた。昔のことやったら、お向かいのおじいさんが「生き字引」のような人やから、ということでインタビューに伺ったが、「猫間川暗渠化工事」の写真からは決定的な証言を得ることはできなかった。

 

桃谷公園のベンチで休んでいるお年寄りにも、何人か声をかけてみたが、当時の目撃談を聞くことはできなかった。昭和十一年生まれのおじいさんから、「そんな昔のこと、わしらみたいな若いもんにはわからへんわ!」といわれてしまった。

 

あと十年、せめて五年早かったら、生き証人も見つかったかもしれない。今となっては、もはや不可能なのだろうか?

 

 

 

 

目撃者探しが行き詰まっていたところ、偶然にも『目で見る「大阪市の100年」(上)』(郷土出版社・199810月)P78の中で、もう一枚の猫間川の写真にであった。

「現在の鶴橋一丁目。猫間川は上町台地の雨水などを集め、大阪城の東で平野川に合流した。昭和6年頃この付近は暗渠化された。後方の旅館は頂上の櫓はないが現存している。大正期に開発されたこの一帯には、河内や奈良方面から行商人などがやってきた。その「ビジネスホテル」的な場所だった。なお、写真は大正13年のもの。」という解説があった。

 

 

 

写真の右下に見えるのが猫間川。護岸は石垣ではなく、木の杭を打ち込んで矢板で土留めをしたものである。簡単な、材木を渡しただけのような橋も見える。材木の長さから見て、川幅は先ほど見た暗渠化工事の猫間川の半分ほど、3〜4メートルくらいで、川というよりも灌漑水路のように見える。大正十一年編纂の『東成郡誌』にある「幅員狭少なるが為め、上流鶴橋町中本町一部に於て悪水氾濫すること少なからず。」という記述からも、鶴橋付近の川幅は狭かったことが分かる。この川幅なら、大雨が降ればひとたまりもなかっただろう。

 

写真をよく見ると、前の方に並んでいるのはいずれも羽織を着た正装の男たちで、その後ろに白木の籠のようなものが見え、そのまわりに白装束のものが数人寄り添うように立っていることから、おそらくは地元の有力者の葬送の記念写真だと思われる。

 

現在も鶴橋一丁目に旅館の建物が現存する、ということで、さっそく写真と地図を片手に自転車にまたがり現場に急行した。目標は、時計台のような細長い建物の手前に見える、木造三階建ての「旅館」だった建物だ。三階部分に欄干がある特徴的な建物だから、今でも現存するならすぐ分かるはずだ。鶴橋駅付近の猫間川は、「玉造から鶴橋」や「鶴橋から桃谷」の中でおおよその見当はついていた。近鉄鶴橋駅の東よりのガードを潜り抜け、現在の鶴橋一丁目と二丁目の境界を南に遡ると、「すぐいせ碑」の前に出る。そのあたりのどこかにあるはずだった。

 

ところが、写真を片手に自転車を押しながら通りを北から南に歩いてみたが、それらしい建物は見当たらなかった。念のためにひと筋西の通りも歩いてみたが、やはり見当たらない。地図を片手に同じところをグルグルと回ってみたが、結果は同じだった。地図と写真を見比べながら、以前訪れた「生起地蔵」の前で途方にくれて立ちすくんでいると、ご近所のおじいさんが声をかけてくれた。「じつは」ということで、事情を説明して写真を見ていただいたが、「わしは昭和生まれやから、大正の古い話はようわからんなあ」ということで、おじいさんが物心ついたころには猫間川はすでに暗渠になっていたそうだ。

 

やはりもう見つからないのかと半ばあきらめながら、「なんでもこのあたりには旅館や旅籠が並んでたらしいんですが……」と話すと、「そんならあんた、この筋とはちゃいますわ!旅館が並んでたんやったら、ふた筋向こうの線路脇の通りですわ!そういうと、こんな形の建物があるわ!ふた筋向こうの通りを南に行くと小さな公園があるんですわ。その南側あたりやと思うんやけど、いっぺんいってみなはれ」、と教えていただいた。

 

 

 

教えてもらった小さな公園は、すぐに見つかった。「北鶴ふれあい公園」というプレートのかかった小さな公園から南の方を見ると、道の左側には写真にあったような古い家並みが続いていた。

 

 

少し南に下がってゆくと、その建物はあった。

現在は旅館ではないが、三階部分の欄干は当時のまま残っていた。建物の構造から見て、この屋根の上に時計台のような櫓があったのではなくて、この建物の屋根越しに細長い櫓のような建物が見えていたのだろう。

いずれにせよ、この建物の前を、写真の「猫間川」は流れていたのだ。大正十三年の写真は、今の北鶴ふれあい公園付近から、南に向かって撮影されたものであることが確認できた。

2005年10月撮影)

 

 

 

 

先ほどの旅館跡の建物からさらに南に下がると、これも旅館か料亭だったのだろうか、焼き板に透かし窓のついたおしゃれな塀の建物が見えてきた。その先に見える信号を右折すれば、細工谷の交差点にたどりつく。つまり、交差点の向こう側にあるのが聾学校で、昭和十二〜三年頃にはその向かいに「尾笹歯科医院」の看板があったはずだ。今では繁華街のはずれとなり人通りも少ないが、戦前まではこの通りこそ駅前の目抜き通りだったのだ。

 

 

 

鉄道が建設される前の明治十八年の地図で、猫間川の河道を確認してみよう。

 

猫間川は玉造村のあたり(地点)で大きくクランク状に曲がっている。さらに南に遡ると、木野村の北あたり(地点)でもう一度大きくクランク状に曲がっているのがわかる。

 

 

上の明治十八年の地図をおなじ縮尺にして、昭和十七年の地図に落とし込むと左のようになり、猫間川の河道を確認することができる。

 

ⓐ 現在の「東小橋北公園」のあたりになる。

@ 玉造から南に下がってゆくと道が二つに分岐している地点。

  現在の「東小橋公園」の南側になる。

A 現在の近鉄鶴橋駅ホーム東側にあるガードの位置。

ⓑ 現在の「生起地蔵尊」のあたりになる。

B 「すぐいせ碑」の位置。

C 「尾笹歯科医院」の看板があったところ。

D 木造三階建ての「旅館」のあったところ。

E 細工谷の交差点。

 

 

 

地点 にある小さな公園から西側を見たところ。

 

 

 

 

 

いくつかの資料に昔の猫間川は現在の近鉄駅のホームの東側を流れていた、という記述があったが、現在の聾学校の横を南北に走る猫間川筋とずれが生じてしまうので、どことなく釈然としなかった。今回発見の大正十三年の写真により、猫間川は聾学校からさらに北にまっすぐ伸びていたことが確認できたので、猫間川はそのまま現在の鶴橋駅の付近を潜り抜け、線路に沿うように北流していたのだと考えた。というより、猫間川に沿うようにして城東線の線路が敷設されたと考えるのが合理的だと考えた。ところが、明治十八年の地図を基準にして考えると、それらの仮説が間違っていたことがはっきりとしてきた。

 

1段階; もともと猫間川は鶴橋駅の手前まで、猫間川筋をまっすぐ北に流れていた。猫間川は現在の鶴橋駅の南で大きくクランク状に曲がり、現在の近鉄駅のホームの東側から線路の北に出て玉造方面に流れていた。大正十一年から十二年にかけて、現在の聾学校付近から旧平野川の川田橋へ排水するバイパス排水路がつくられたことにより、それより下流の猫間川の負荷は大いに軽減された。この頃撮られたのが今回見つかった大正十三年の写真になる。

 

2段階; バイパス排水路の開通により、それより下流の猫間川の水量は大きく減少し、駅前の都市開発が進むのに伴い、駅周辺部の猫間川は暗渠化されていった。旅館の前は昭和六年頃に暗渠になったとあるので、駅の付近は「第五期下水道事業」よりも早い時期に暗渠になったと考えられる。

 

3段階; さらに都市開発が進み、バイパス排水路よりも上流の猫間川も暗渠化されることになった。この頃撮られたのが「尾笹歯科医院」の写真で、「第五期下水道事業」がはじまった昭和十二〜三年の頃になる。

 

このように、これまではミッシングリングであった鶴橋駅付近の猫間川の川筋の変遷を、明治十八年の地図が解き明かしてくれた。ただし、上の二つの古い写真は、距離的には150メートルほどしか離れていない場所で、時期的には十五年ほどしか違わないのだが、おなじ「猫間川」といっても、ずいぶん印象が異なる。川幅は倍ほど違うし、深さも明らかに違う。断面積が違うのだから当然のことながら、流量も違うはずだ。はたしてバイパス排水路より北側の部分も、同じように川幅を拡張して川底を深く掘り下げ、石垣積みの護岸にしてから暗渠になったのか、それともそのまま埋められて暗渠になったのかは今のところ不明である。

 

これは推測だが、大正十二年に聾学校前から平野川の田川橋へ、洪水対策のバイパス排水路が完成したことにより、細工谷から流れ下ってきた上町台地方面の水と、源ケ橋から北流してきた水のほとんどは、バイパス排水路を通って平野川に排水され、聾学校以北の猫間川の流量はそんなに多くはなかったのではなかろうか。したがって、流量を確保するために改修工事をする必要はなく、駅前の開発につれて、そのまま暗渠にして埋められたのだと思われる。

 

 

 

 

猫間祭

 

猫間川は水量が少なかったため、あたかも東横堀川や道頓堀川のような人工河川や掘割のように思われたり、平野川や旧大和川の支流の如き扱いを受けてきたが、流域面積こそ小さいものの、あえていえば「猫間川水系」ともいうべき独立した自然河川であった。猫間川の水源は大和川とは別で、我孫子丘陵と上町台地に挟まれた低地を水源とし、上町台地の東の裾野を沿うようにして北流していた。人家のそばを流れていた川であったので、人との関わりあいが深かったことを示すエピソードも多く伝わっている。

 

『摂津名所図会大成』によると、玉造の猫間川のほとりには、「姥が柳」という柳の老木があって、

「事実詳らかならずといへども、時々あやしきことありて人をなやますとぞ。故に、近頃より毎年三月十六日猫間祭とて、祈祷をなすより其事やみしといふ。」

という話が伝わっている。「姥が柳」がどこにあって、どのような妖しきことがあったのかは詳らかではないが、幕末の大阪では、毎年三月十六日に「猫間祭」というのがあったらしい。もしも、猫間川が今も流れていたならば、「猫間祭」も現在に伝わっていたかもしれないと思うと、残念でならない。

 

 

 

私はときどきふと、今も猫間川が流れていたならば、どのような風景だったかと空想することがある。私の頭の中にある想像上の猫間川の風景に、もっとも近いのが長瀬川だ。長瀬川は旧大和川本流の河道の跡だといわれている川で、八尾から東大阪を通り、放出(はなてん)付近で第二寝屋川に合流している。猫間川に比べ、市街地から離れていたため、現在も流域に農地が残っていて、井路川(いじがわ)として昔の面影をとどめている。

 

 

農業用水であるため、著しい水質汚染は認められず、魚影は少なかったが、私が訪れた桜の咲く頃には、野生の鴨のつがいが川底の水藻をついばんでいた。川幅も9メートルほどで、猫間川が今も流れていたなら、このような田園風景を見ることができたかもしれない。

写真は高井田付近を流れる長瀬川。

20044月撮影。)

 

 

現在の大阪は、毎年夏になるとヒートアイランド現象で、市街地の平均気温は地球温暖化を肌身で実感できるほど高くなってきている。東京に比べても、市街地の緑地面積の少ない大阪では、ヒートアイランド現象は深刻な問題である。

 

 

蒲生四丁目付近の新喜多大橋のあたりで寝屋川に合流していた楠根川は、昭和四十四年に埋め立てられたが、昭和六十三年八月に、「楠根川跡緑陰歩道」として整備された。もしも猫間川が楠根川同様に姿を変えて、今も流れていたならば、熱帯夜の大阪の街に、一服の涼風をもたらしてくれたであろう。

写真は新喜多大橋の付近を流れる楠根川跡。

200410月撮影)

 

 

「春の小川はさらさら行くよ……」でおなじみの小学唱歌「春の小川」は、高野辰之の作詞で、岡野貞一が作曲し、大正元年(1912)「尋常小学唱歌()」の中で発表された。高野辰之が渋谷川の上流、河骨(こうほね)川と呼ばれていたあたりの風景を歌ったものだといわれている。東京の地理には詳しくないが、なんでも原宿の裏あたりを流れていた川であるらしい。今では猫間川同様、河骨川はコンクリートの暗渠になって地下に潜り、ビルの谷間を流れている。現在では、歌が作られた頃の、武蔵野の田園風景をとどめるものは何も見当たらないそうだ。下流の渋谷川は、コンクリートの護岸で囲まれた都市河川として、かろうじて生きながらえている。その渋谷川では、最近地元の民間有志が集まって「渋谷川再生事業懇談会」を立ち上げ、ビオトープを作って子供たちの環境学習の場にしたり、河川敷の清掃活動や、都市景観の再生に取り組んでいる。

(http://www.osekkaiz.com/manabinonetwork/oshirase-flame.html)

 

かつては、水運の動脈として物流を担い、また花見の名所として大阪の庶民を楽しませてくれた猫間川は、その後は大阪の発展の礎となって、汚い仕事を黙々と引き受けた後、文句ひとついわずに暗渠となって地下に潜り、今もわれわれの生活を支えてくれている。そんな猫間川に対し、多くの人は「ドブ川」のレッテルを貼るだけで、歴史のかなたに葬り去ろうとしている。河骨川は「春の小川」の歌碑まで作ってもらっているのに、あまりにも不公平だ!暗渠となった猫間川は、もはや掘り起こすことはできないが、かつて猫間川が流れていた頃の大阪の原風景は掘り起こして、猫間川にもちゃんとした歴史的な評価をしてやらねば、「猫」も成仏しないだろう。

 

もしかしたら、今日の大阪市の低迷の原因は、「猫の祟り」かもしれない。中国のことわざに、「水を飲むときには、井戸を掘った人を忘れてはならない」というのがある。

バーチャルな「川遊び」のお礼として、猫間川のためにバーチャルな「猫間川顕彰碑」を建てよう!場所は「姥が柳」があったという玉造界隈でもいいが、今ではビルが立ち並び、柳の似合う風景ではない。やはり「猫」の余生は、緑あふれる自然の中で送らせてやりたい。となると、かつて猫間川の河口のあった大阪城公園の北東、現在の弁天橋のたもと、大阪城の天守閣が見える、水上バスの乗り場あたりがいちばんふさわしいように思う。

 

 

 

写真の石垣風の護岸が少しへこんだところあたりが、かつて猫間川の河口があったところだ。少し贅沢をいえば、猫間川抽水所から水を引き、玉造筋沿いにせせらぎのビオトープをつくり、「猫間川」を再現できれば最高だ!

 

 

 

石碑は鵲森宮神社の句碑のように、こじんまりした自然石がいいだろう。四角く磨き上げた無機質な石碑は、「猫」には似つかわしくない。記念のプレートは、アパッチ族に剥ぎ取られてしまう(?)のでやめておこう。もっとも、「猫」は自分から身を引いて地下に潜ってしまうようなシャイな奴だから、「顕彰」されるのはあまり喜ばないかもしれない。石碑の表にはシンプルに「猫間川跡」の四文字だけにしておこう。石碑の裏には、感謝をこめてつぎの一首を刻むことにする。

 

みをつくし 浪花の春を 猫間川

名こそ流れて なごりとどめん

 

除幕式はもちろん、三月十六日でなければならない。大阪市長をはじめ、環境事業局の下水道関係者は当然参加すべきだし、教育委員会、市史編纂室からも代表を送るべきである。民間からは、くず鉄スクラップ業界、はしけ水運業界、昆布佃煮業界、いかるが牛乳、笑福亭一門、コリアンタウンや猫間川筋のご町内からもご参加を仰ぎたいものだ。ありがたい祝詞をあげていただくのは、猫間川川浚碑のある玉造稲荷神社の宮司さんにお願いするのが筋だろう。時は早春、桜にはまだ少し早いが、大阪城公園の梅林に咲き競う梅の花は、さわやかな香りで祝福してくれるはずである。

 

除幕式が終われば、「猫間川パレード」だ!猫間川筋を遡り、玉造から鶴橋、桃谷、源ケ橋を通り抜け、河堀口を尻目に殺して桃が池まで、天保の砂持ちのように、大阪の不景気を吹き飛ばすようなド派手な演出で、サンバチームを先頭に、派手に、陽気に、賑やかに、鳴り物入りでドーンと繰り出そう!

 

生田南水が存命であったなら、きっと「猫間川音頭」を作ってくれたはずだ!まちがいない!

 

 

 

 

 

 

文:安井邦彦

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